• #01-#10
  • #11-#20
  • #21-#30

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

  • #01-#100
  • #101-#200
  • #01-#10
  • #11-#20
  • #21-#30
  • #31-#40
  • #41-#50
  • #51-#60
  • #61-#70
  • #71-#80
  • #81-#90
  • #91-#100

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

  • #101-#110
  • #111-#120
  • #121-#130
  • #131-#140
  • #141-#150
  • #151-#160
  • #161-#170
  • #171-#180
  • #181-#190
  • #191-#200

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

4

■第四話

「……私を探していたというのは、お前らか」

警察には届け出ないこと、互いの名前を明かさないことを条件に、聯から紹介された小さなアトリエで光啓たちを迎えたのは、日の光を浴びたことがないのではないかというほど青白い肌をした、げっそりと病的な雰囲気の老年の男だった。

「……ふん」

どういう説明をされたのか、まるで値踏みをするように光啓たちをじろじろと眺めたまま沈黙してしまったところをみると、だいぶ偏屈なタイプのようだ。だらだらと世間話のできそうな雰囲気でもなかったので、光啓は持ってきた絵を机の上へと広げて見せた。

「これは、あなたの作品ですね?」

「……それが、なにか」

警察ではないと聞いているからなのだろう、開き直ったような無愛想さにめげず、光啓はじっと男を見つめる。

「この絵には、ある角度でしか見えない文章が描かれていますよね。何故、そんなことを?」

「……!」

途端に、男は「気付いたのか」と呟いて、その目を僅かに光らせた。

「その文章の意味はわからん。私が頼まれたのは、指定された絵の贋作を作ることと、その文章を普通には見えないように入れることだけだ」

そう言って、男は絵の額縁をそっと撫でながらどこか満足げに目を細める。

「この仕事は苦労した。せっかく完璧に本物を再現しても、そんな加工をすれば贋作としては台無しになりかねん。紫外線にしか反応しない塗料を使う手もあったが、それではあまり味気ない。だから……」

よほど自分の技術が誇らしいのだろう。先程までの無愛想が嘘のように、男はべらべらといかに難しい技術なのかを語りはじめた。こんな風に自慢げな様子を隠さない相手なら、上手くつつけば詳しい話を聞けるのではないかと、光啓は「こんな変わった依頼、ありえないですよね」と言葉を選びそっと会話を誘導する。

「普通なら贋作としてまったく使えなくなってしまう……よほどあなたの腕を見込んだんでしょうね」

「……ふん。まあ、他にこんな面倒な依頼、受ける者はおらんだろうよ」

案の定、少し持ち上げると男は僅かにだが口角をあげた。

「依頼者は、なんのためにこんな依頼を?」

「さあ……わからんね。私も、暗号か何かなら適当な絵の額縁の間にでも仕込めばいいだけだし、そのほうが早いし安いだろうとも言ったんだが、どうしてもこの絵の中に仕込んで欲しいと頑なに譲らなかった」

それがどれだけ難しいかも説明してやったのに、と男が困惑と自慢をあわせたような息をつき、肩を竦めるのを見ながら、光啓はどういうことだろうかと内心で首を捻る。

男が言うように、ただの暗号ならわざわざ贋作として作る必要もないし、誰の手に渡るとも知れない市場へ出すのはリスクが高すぎる。

(しかも今話題になっている作家の作品を選んだのは――人目につかせるためだ)

この絵が――いや、この暗号になっている文章が不特定多数へのメッセージなのだという確信が強まる。

だが、男はそのあたりについては聞いてはいないらしく、あれこれと言葉を巧みに変えながら探りを入れてみたが、ただただ首を傾げるばかりだ。

(まあ……これだけあっさり依頼内容を口にする男に、重要な秘密を渡すわけはないか)

これ以上の情報は諦めるほかなさそうだ。他に何かを知っていそうな相手と言えば先程会ったばかりの聯ぐらいだが、彼女をあてにするのは少し危険なような気がする。

さてどうするか、と光啓が考えを巡らせていた、その時だ。

「ああ……そうだ、ひとつだけ」

と、男は思い出したように言い、汚れた引き出しを開けて薄い封筒を差し出してきた。

「あの絵からここに辿って来る人間がいれば、この封筒を渡せとメモと一緒にポストに入れられていた。これまで詐欺師やヤクザに様々なもんを作らされてきたが、こんなことは初めてだった」

切手も無く、何も書かれていない封筒だ。

光啓は涼佑と奈々の顔を見てから、ノリ付けされた封筒の口をゆっくりと切り開いた。

……どこかに予感はあった。

こんなに金のかかる大がかりな仕掛けを、まるで意図がわからない児戯のために用意し、何かを試そうとしている感じ。

封筒の中から出てきたのは、一枚の紙だった。

ただ名前がひとつ記載されただけの名刺。

光啓は思わず、「は」と無意識に笑ってしまった。

「……! おいこれ、名前! 『Satoshi Nakamoto』って!! お、おおい!? ちょっ!? えっ!?」

「……まだ断定していいか、わからないけど」

涼佑は興奮気味に言ったが、光啓は頭の片隅にあった名前を現実に目の前にして小さく息を付いた。

「もしかしたら、僕らは“宝探し”の鍵を手に入れたのかもしれない」

日本の各地に散りばめられたという莫大な金と、その鍵。途方もない幻のようなものだと思っていたものの先端が指の先に触れた感覚に、光啓は滅多に動揺しないはずの自身の心臓が興奮に音を上げるのを聞いたのだった。


「ふーー……なんか、びっくりしちゃいましたね……!」

アトリエを後にしてすぐ、奈々は興奮冷めやらぬ様子で息を吐き出した。

「『Satoshi Nakamoto』って、あれですよね。最近また話題になってる、宝探しの仕掛け人!」

「世間ではそういう認識なんだ……」

芸能人の噂話を手に入れた、というのに近い奈々の反応に、光啓は僅かに苦笑した。ネットで噂になった程度の話が現実に存在しているという事実と、恐ろしいほどの大金に繋がる手がかりを手のしたのだという実感がまだ沸いてこないのだろう。光啓も、ただあの絵の中にメッセージを見つけただけなら、同じように純粋な好奇心をくすぐられるだけで済んだのかもしれない。

だが、贋作師を見つけるために光啓が使ったコネクションは、取引先も何かあったときにしか使わないようなあまり表に出せない類いのもので、そこから繋がった聯という女性は本物の裏家業の人間だ。

直通の連絡先を持たない贋作師を使い、依頼から報酬の受け渡しまでを全て足のつかない方法で行った用心深さ。そうして自身の痕跡を消しながら、これを仕込んだのは自分なんだぞと、それを探す人間にわざわざ知らせてくる人物がただの愉快犯のはずがない。なんの目的があるのかはわからない以上は、慎重になるべきではある。一方で、このチャンスが偽物であると断定する材料はなく、手放すのは悪手だ。

(また接触してくることがあれば、聯さんを通じて連絡するようにしてもらったけど……さすがに可能性は薄いだろうな)

浮き足立ちそうになる気持ちを抑えようと、静かに深呼吸をした光啓は、少し冷静になったところで、珍しく黙っている涼佑が目に見えてそわそわしているのに気付いた。

「なに?」

「いや、ちょーっとあのオッサンに聞きたいことがあんだよな。少しだけ戻ってきてもいいか?」

涼佑はまだ興奮を引きずっている様子で続ける。

「ほら、まだなんかヒントもらっえるかもじゃん? 名刺が入ってた封筒に隠された暗号が! とかさあ」

(それは無いと思うな……)

依頼主にとってあの贋作は目印のひとつで、贋作師自身には何かを期待していなかったはずだ。意図に気付かず捨てられる可能性のある封筒の類に、そんな仕掛けをしたとは思えない。だが、それを指摘したところで涼佑が素直に聞くとも思えないので「好きにしたら?」と光啓は肩を竦めた。

「僕は帰るよ」

その返答に涼佑は「冷てーなあー」とぶーぶー口を尖らせたが、想定はしていたのだろう。すぐにいつものへらりとした表情に戻るとふたりに手を振り「じゃーな」と踵を返していったのだった。

「まったく。仕事もあのぐらい熱心ならいいんだけど」

「あはは」

大袈裟に溜息をついた光啓に、奈々は苦笑気味に笑った。

「でも、いい人ですね。私が社長に保険のことで相談してたのを知って、任せてくださいってわざわざ声かけてくれて」

「ただの点数稼ぎだろ」

その時の調子の良い笑顔が目に浮かぶようで、光啓は渋い顔をした。

「だいたい、あいつ自身が解決するわけじゃないんだから。任せてくれっていったその足で僕の休日を潰したんだよ? だいたいいつも、ホイホイと何かしら引き受けてきては僕に丸投げ。それでちゃっかり自分の評価は上げているんだから……」

「……芥川さん、愚痴言いつつちょっと楽しそうですね」

「楽しそう? どこが?」

光啓が心外そうに問い返したその時だった。

「あ……!」

奈々が突然声を上げて立ち止まった。

「志賀さん?」

「絵! 絵がない!」

「あれ、置いてきたんじゃなかったの?」

奈々が手にしていないのは気付いていたが、置いていったのではなく忘れてしまっていたらしい。

「別に構わないんじゃない? 贋作だったんだし」

あんな不気味な絵が手元からなくなったところで別に構わないのではないかと思ったが、奈々はぶんぶんと首を振った。

「預かり物ですから、そういうわけには……!」

それほどいい絵だとは思えなかった光啓には、本物でないならそう価値もないのだから、代わりに捨ててもらえれば良かったんじゃないかぐらいの気持ちでいたのだが、奈々の言うことももっともだ。

(というか、改めて考えてみると、また売りに出されてしまう可能性もあるか……)

新たな被害者を防ぐため、そして同時にあのメッセージが他の誰かの目にも留まってしまう可能性を考えれば、手元に置いておくほうがいいかもしれない。

(まさかとは思うが…涼佑のやつ、自分があの絵を持って帰ろうとして戻ると言ったんじゃないよな……?)

そんな疑いを心の隅で思いながら引き返したのだが、何故か薄く開いたままだったアトリエの扉を開いた先では、思わぬ光景が光啓たちを待っていた。

「……なんだ?」

一歩踏み込んだ瞬間の違和感を、なんと呼んだら良かったのだろう。

元々薄暗い部屋だったが、何故かもっと深く濃い影の中にいるような息苦しさが、光啓の足がそれ以上踏み込むのを躊躇わせた。その理由は目の前にあるのに、光啓はそれがすぐには理解できなかった。

(……なんだ、これ……)

獣でも暴れたかのように、さきほど来た時より散らかった床。油絵の具の匂いに混じった血生臭さ。さきほどからチラチラと目に留まるーー赤。

光啓の脳がこれほど状況の理解に遅れたことはかつてない。

それだけ、今、目の前にある光景は現実離れしすぎていた。

「ひ……ッ!」

喉から引きつったような声をあげて、奈々が後ずさってくるが、光啓は彼女を受け止めてやれる余裕もなかった。

「……なんだ、戻って来ちゃったのか」

「どう……して……」

いつものような気軽なトーンをした声が、今はかえって不気味で、光啓はからからに乾いた喉からなんとか声を出すので精一杯だった。

「涼佑が……こ、殺したの……?」

そこにいたのは、明らかに絶命しているのがわかる倒れた贋作師と、その背に深々とナイフを突き立てている涼佑の姿だった。

そして涼佑は、うん、と頷いて笑った。

掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの
無断複写・転載を禁じます。

Copyright©2022 ザ・サトシ・コード委員会